TAOのブログ BLOG

たえて桜のなかりせば

  世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
 有名な在原業平の歌です。中学のとき、国語の実力テストに出ました(授業では習っていない文章が出ます)。
 「この世に桜というものが全くなかったら」という上の句に対して、下の句はどういう意味なのかという問題で、選択肢が三つか四つありました。「~せば~まし」の反実仮想などまだ習っていませんでしたが、素直に読めばカンで分かるものです。でも私は、そんなはずはない、桜がなかったら心がのどかだなんて変だ、桜はあった方がいいに決まっていると曲解し、不正解を選んでしまったのでした。
 そろそろ桜が咲くかなあ…。ああ、でも、あっけなく散っていくことよ…。といった、桜に心乱される情緒には、全く無頓着でした。

 同じく中学の国語の実力テストで忘れられないのが、「平家物語」の「木曽の最期」です。木曽義仲と愛人巴御前との別れの場面。女を連れて死んでは恥を残すと義仲が言うので、巴は、ならばと、最後のいくさを義仲に見せて(「首ねぢ切って捨ててんげり」!)去って行くのです。義仲は、あくまでも巴を生かしたかったのでしょう。
 これは難なく解答したのですが、何が驚いたって、何と、友だちさめざめと泣いていたことです。「かわいそすぎて、私はテストどころじゃなかった~!」って。
 何という感受性…!

 のちに大学の国文科に進学し、高校の国語教員になった私ですが、中学の頃はこんなだったのです。
 相当な文学少女ではありました。中学時代は、ユーゴー、トルストイ、ヘッセなどなど、海外文学を片っ端から読み漁り、高校時代も、漱石、川端、太宰をはじめ、文学史上の作品はほとんど読破しています。
 でも、あの頃は頭でっかちでした。アタマで救われたいと必死だったような気がします。

 高校時代まで古典を面白いとは思わず、近代文学を専攻するつもりで国文科に入りましたが、ふと古典に目覚めました。四季の移り変わりを味わい、花や風に心を寄せる余裕ができました。本来の感性がようやく解放されたようでした。アタマでなく体で世界を感じることができるようになった気がします。文学部はよかったです。
 卒論と修論は、中世文学の「無常観」について書きました。道元の「正法眼蔵」や唯識論なども絡め、アタマの作業もありましたが、人として生き抜くための世界観を得られました。

 あっけないもので、岡山では桜も終わりに近づいています。山が笑い始めました。(「山笑ふ」は春の季語)
 みなさんは、どう味わっていますか? めでたいと浮かれる人ばかりではないでしょう。しんどさの中にいる人にとっては、かえって辛い季節です。

  ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん  
 百人一首で、私が一番好きな歌です。作者は紀友則。―こんなのどかな春の日なのに、どうして桜は落ち着いた心もなく、気ぜわしく散ってるんだろうー。
 うららかな春の光に舞う花びらの下、はらはら涙を流す作者の姿が浮かぶようです。どうあっても生きねばならない覚悟のようなものを感じます。

 万葉集の、大伴家持の歌も好きです。
  うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思えば 

 深い心を持った人は、「光」の奥に「影」も見てしまうものです。その悲しみに浸ってみるのもよいです。内側から豊かになって、やがて生きる力に変わると思います。「影」の奥に「光」もあります。
 「春愁」もまた乙なものです。

                              心理面接室TAO 藤坂圭子