「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(「論語」里仁篇)
中国古代の思想家、孔子の名言です。
高校入学後、最初の漢文の授業は故事成語でした。たくさん並んでいた中で、15歳の私にはこの「朝に道を聞かば」が妙に心に残りました。
「朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでもいい」。
え?、なんで⁉ 「真理」を知ったからと言って、それを実践しなければ意味ないじゃないの。朝聞いて夕方までの一日足らずでは何もできない。考え方が安易すぎないか、と思ったのでした。
授業では何の解説もないまま、漠然とその疑問を抱えたままウン十年過ごしてきましたが、還暦を過ぎた今、私なりに何となく分かってきた気がします。
さて、この句の解釈には諸説ありますが、次の二つが主です。
・時は春秋戦国時代。この乱世を治め平和へと導くことができる「道」(徳、政道)がついに発見されたならば、安心して死んでいける。
・一生学問に励むべし。「道」(真理)を追究することこそが人の生きる意味。真摯にその姿勢を貫き、「道」を悟ることができれば、心置きなく死んでいける。
(後者の解釈の方が通説となっていますが、前者の解釈も、世界分断が危惧される今、身に沁みます)
そもそも「道」とは何なのか? 政治の王道? 人としての道徳? 不変の真理? (いずれにしても、当面接室名の「TAO(道)」とは違うようです)
どう解釈するのが正しいのかは門外漢の私には分からず、勝手な解釈で孔子様には大変失礼ですが、私は、「自分が自分であるという実感」ととらえたいです。これが自分だったんだ、と納得できる感覚と言ったらいいでしょうか。
とすると、いくら学問しても、読んだり考えたり、YouTubeを見たりしても、ここにはたどり着けない気がします。目標を定めて計画通りに生きて成功したとしても、何か違和感が残るかもしれません。
私の場合、疾風怒濤の思春期をだいぶ過ぎたころ、偶然ですがカウンセリングの世界に入り、初めて自分に向き合うということを知ってから、人生が変わりました。かなり勉強もしましたが、何より大事にしたのは、行き当たりばったりでも直観や心の声に従って行動することです。やりたいことをやりました。恥をかいたり、傷つけたり傷つけられたり、鬱になったりもしましたが、たくさんのご縁に恵まれ、コロコロ転がりながら、気付いたらTAOまでたどり着いていました。
若いころに抱いていた自己イメージや思い描いた人生とは、全然違った自分になりました。でも、「自分が自分であるという実感」が持てるようになり、何だか安心感があります。「夕べに死すとも可なり」の心境にちょっと近づけたと思います。
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」は、決して私が高校生の頃に感じたような安易な句ではなく、「道」を(自分に)聞くまでの長いプロセスの大切さを説いているのだ、と今は理解できます。
人の複雑な感情や関係にもみくちゃにされて、「自分」が分からないまま彷徨っている多くの方々も、このプロセスを臆さずに進むことで、思いもかけないところに解答が見つかるかもしれません。一人でいくら考えても見つからないので、ご一緒させていただけたら幸いです。
「道」は、自分の外にはなく、自分の内側から起こるのだと思います。 自分を覆う余分なしがらみを一つ一つ剥がし、温存されていた自分の芯の部分(ユングの言う「セルフ」)を明らかにしましょう。人と違っていてもいいし、成果がなくても、特に何も残さなくてもいいのです。幸せ感は結局、「何を為すか」ではなく、今この瞬間「如何(いか)にあるか」に掛かっているのではと思います。
「I am OK」であれば、必然的に「You are OK」になります。一人ひとりが「道」を実感できることが、きっと世の中の平安にもつながると思うのです。
おかげさまで「心理面接室TAO」はもうすぐ10周年を迎えます。長かった夏も終わり、つくづく物思いにふける今日この頃です。
今まで書いてきたことの繰り返しになりますが、とりとめもない雑感を、まとまりもなく書かせていただきました。
みなさまにも、落ち着いた秋が訪れますように。
心理面接室TAO 藤坂圭子