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「注(そそ)ぐ」ということ

 私は、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」がとても好きです。フェルメールは17世紀オランダの寡作の画家で、作品は30数点しか残されていません。中でも、「牛乳を注ぐ女」は「真珠の耳飾りの少女」(「青いターバンの少女」)と並ぶ傑作の一つとされます。(見出しの絵はその一部です)
 
 召使と思われる女性が、丁寧に牛乳を注いでいます。パンプティングを作っているのではと言われています。フェルメール特有の静謐感。隅々までの細やかな描写。エプロンやテーブルクロスの「フェルメールブルー」の鮮やかさ。窓からの陽光に照らされた乾いたパンの質感。
 見事としか言いようがありませんが、私が引かれるのは、牛乳の白く細い筋と(不自然だという説もありますが)、それを無心に見守る女性の表情です。

 こんな風に暮らしたい、とずっと思っていました。何事もこんな風に丁寧にやりたい。「瞬間瞬間が瞑想」が私の理想なのです。が、忙しいのと、前回書いたようにADHDの傾向があるので、所作は雑、いつもバタバタ。理想とは程遠い生活で情けないです。

 そんな私ですが、朝食のお茶を淹れるときだけ、ちょっと違います。
 手間を省きたくずっと粉茶で間に合わせていたのですが、ある時、美味しい深蒸し茶に出会い、以来、ちゃんと急須でお茶を淹れるようになりました。せっかくのお茶なので少しでも美味しくと、最後の一滴まで丁寧にお湯呑みに注いでいるとき、ふと、あら「牛乳を注ぐ女」と同じかもと思いました。「注ぐ」って気持ちのいい行為だ、と気付きました。 

 コーヒーを淹れたり、ビールを注(つ)いだりとも似ていますが、コーヒーやビールには作意が入ります。コーヒー豆がふんわり膨らむように、ビールの泡がきれいに立つように。なので、筋肉のコントロールが必要になります。
 
 けれど、「注ぐ」というのは、ただ落ちるに任せる行為です。力は抜いています。
 そこには直線的な軌跡があり、当然落ちるまでの時間があります。その時間は、無機的な時計の時間(「クロノス」)とは違い、充実感のある「カイロス」的時間とでも言えるでしょうか。時間があるようで、ない。無に通じるような、永遠に通じるような。
 (「カイロス」と「クロノス」については、2017年7月のブログに書いているので、よかったら読んでください)

 若いころ習っていた茶道のお稽古も思い出します。釜から柄杓で掬ったお湯をお茶碗に「注ぎ」ます。ぽたぽたと落ちるその音が、ますます静寂を感じさせます。その先に、じっとまなざしを「注ぎ」ます。
 また、茶道をやってみたいです。

 ・・・などと、妙なことを考えながら、今朝も美味しくお茶をいただきました。
 「注ぐ」という行為とその時間を、できるだけ大切に過ごしていきたいと思います。「力を注ぐ」、「愛情を注ぐ」、「心血を注ぐ」…。
 まっすぐで優しい心持ちで「注ぐ」に集中すると、目には見えない広がりの中で、何かが生まれてくるような気がします。

                            心理面接室TAO 藤坂圭子
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